ディスカバー・ニッケイ

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テキサス州クリスタルシティーで別人の様になっていた父との再会 (英語)

(英語) 車で収容所に到着すると、男の人たちが辺りをうろうろしていたんです。私たちは、お父さんはどこだろうと周囲を見渡していると、「お父さんだ、お父さんがいるよ。」と姉が言うので、私も探したんですね。でも持っていた写真に写っていた立派な父の姿を見つけることはできなかったんです。それでようやく父は窓の方に近づいて来て姉たちと話し始めたんですけど、私は、本当にこの人がお父さん?という感じで、とってもがっかりしたんですね(笑)。私もそれが父だとはわかりませんでしたし、小さい妹は怖がって父から逃げてしまったんです。私も逃げ出したかったけれどそこまで幼くはなかったし、できませんでしたね。でも父であるその人が嫌だったんですよ(笑)。なんだか汚いし、みすぼらしくてね。私は、父はハンサムで立派で、おしゃれで身なりもきちんとしている人だと思っていたんです。だから実際の父の姿にはがっかりしたんです。

でも姉たちは父とハグしたりして、とてもうれしそうだったし、母もとても幸せそうでした。私もうれしそうに振る舞う努力をしましたけど、実際はそうではありませんでした。父に慣れるまでしばらく時間がかかりましたし、人から聞いていた話と父の実際の姿はかなりかけ離れていたんです。でも父は穏やかで、愛情に満ちた人でした。後になって父から聞いた話によると、娘が自分から逃げていったことにはずいぶん傷ついたそうです。父は、「娘がね、自分の娘がだよ、僕から逃げて行ってしまったんだ。」と言ってました。


クリスタルシティ収容所 司法省管轄の抑留所 投獄 監禁 テキサス アメリカ合衆国 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 1998年5月27日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: ロリ・ホシノ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project

語り手のプロフィール

マコ・ナカガワ氏は、1937年2月ワシントン州シアトルで生まれた日系二世の女性です。戦前の幼少時代を同地で過ごしますが、(戦争が始まると)ワシントン州ピュウアラップの集合センター、アイダホ州ミニドカの収容所、テキサス州クリスタル・シティの収容所に収容されました。戦後は教諭、学校長となり、その後ワシントン州公立教育指導局長のもと多文化研究のスペシャリストとして従事。そして全米初の多人種教育プログラムである、Japanese American Cultural Heritage Programおよびレインボー・プログラムを展開し指導しました。2021年4月4日、84歳でお亡くなりになりました。(2021年7月)

ハワード・カキタ

不運だった親戚たち(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ハワード・カキタ

息子が原爆を生き延びる希望はほとんどないと考えていた両親(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ハワード・カキタ

核兵器についての考え(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

イワオ・タカモト

マンザナーに向かう途中での喪失

ウォルト・ディズニーとハンナ・バーベラの日本人アニメーター(1925-2007)

ジミー・ナガヌマ

ペルーから米国へ強制連行(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティで歓迎を受けた家族(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティでの最初の食事(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ベン・サコグチ

キャンプから帰ってきて

(1938年生まれ) 日系アメリカ人の画家、版画家