ディスカバー・ニッケイ

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コレマツ裁判が現代社会に与えた影響 (英語)

(英語) そうですね、僕には新たに気付きつつあることがあるんです。補償を得たことは素晴らしい勝訴だったのですが、完全な勝利ではないんですね。同時に、起こした訴訟の数々も、大切な勝利でしたけれど、やはり完全な勝利ではないのです。人々を教育することはできますが、全ての人々を変えることはできないし、証拠や事実の裏付けなく人種差別的で無知な考え方を抱く人はこの国に居続けるでしょう。

だからこそ僕が思うのは、教育は大切だけれどそれだけではだめだということです。政治的な力を持たなければ、コブレ下院議員1のの発言を批難し彼を罰することができなければ、トレント・ロット上院議員2を処罰する力がなければ、また、シャキール・オニール3に自分の間違いに気付かせられなければ、どんなに人々を教育しようとも無駄なことになるのです。もちろんそれは、教育は無意味だというのではありません。なぜならその一方で、教育がなければ圧倒的な政治力さえも効力を持ち得ないからです。だから僕は、政治力と教育力双方が非常に重要だと考えます。コレマツ再審裁判や補償運動、そして政治活動や教育普及活動を通し僕が学んだことは、どちらも欠かせない重要な要素であるということです。

1. 2003年ハワード・コブレ下院議員は、ラジオ出演中に第2次大戦中の日系アメリカ人の強制収容を国家には必要な措置だったとし、支持る発言をした。各界からの批判及び辞任要求を受けた結果、後に謝罪した。

2. 1998年トレント・ロット上院議員のテレビ番組内での発言が全米で物議をかもし、議会でも問題となった。その内容というのは、同性愛者はアルコール中毒者や窃盗強迫者、そしてセックス中毒者と同類である、というもので、その保守系テレビ番組司会者の、同性愛は罪かと言う問いに、ロット氏は「罪だ。」と答えた。

3. シャキール・オニールはNBAフェニックス・サンズに所属するバスケットボール選手。中国出身のヤオ・ミンが、ヒューストン・ロケッツに所属した当初、オニールがヤオ・ミンについてインタビューを受けた際、中国語をまねてあざ笑うかのような発言をし、メディアの避難を浴びた。


教育 政府 政治 リドレス運動

日付: 2003年2月8日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: トム・イケダ、マーガレット・チョン

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project

語り手のプロフィール

デール・ミナミ氏は、1946年10月13日カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれ、同州のガーディナで育った日系三世の男性です。1968年、南カリフォルニア大学で政治学の学士号を取得し、卒業時(学業優秀者に贈られる)magna cum laude(優等賞)を受賞、同時にPhi Beta Kappa(全米最古で終身会員制の優等学生友愛会)の会員資格を授与されました。そして1971年、カリフォルニア大学(バークレー校)Boalt Hall School of Lawで法学修士号を取得しました。ミナミ氏は、Asian Law Caucus, Inc.、Asian Pacific American Bar Association of the Greater Bay Area、The Asian Pacific Bar of California, the Coalition of Asian Pacific Americansの共同創立者です。

ミナミ氏は、アジア太平洋系アメリカ人およびマイノリティーの公民権に関わる(数多くの)重要な訴訟に関わってきました。そのひとつに、コレマツ対アメリカ合衆国があります。これは、当初米連邦最高裁が(日系アメリカ人を隔離し収容することへの合憲性を)支持するという重要な判決を下し、40年前にコレマツ氏が、第2次世界大戦中に日系アメリカ人に出された退去命令を拒否した罪で有罪となったのを覆す訴訟でした。その他には、1)アジア太平洋系アメリカ人(全体)を代表してアジア太平洋系アメリカ人が起こした初の雇用をめぐる集団訴訟、United Pilpinos for Affirmative Action対California Blue Shield(保険機関)。2)アジア太平洋系アメリカ人を代表し、ワシントン州立大学にアジア系アメリカ人研究プログラムを開設するよう要求した集団訴訟、スポケーンJACL(日系アメリカ人市民同盟)対ワシントン州立大学。3)終身在職権を不当に却下されたことを申し立てたことで、教育の場で差別があると公に報道された為、最終的に学校側から終身在職権を与えられた、ナカニシ対UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)など、重要な訴訟に関わってきました。

ミナミ氏は、カリフォルニア大学バークレー校およびカリフォルニア州オークランドのミルズカレッジで教えた経験があり、State of California's Fair Employment and Housing Commission、State Bar of California(カリフォルニア州法曹協会)、およびJudicial Nominees Evaluationのコミッショナーを務め、更にAttorney General’s Asian/Pacific Advisory Committeeの委員長、Senator Barbara Boxer’s Judicial Screening Committeeのメンバーを務めています。また1994年には、クリントン大統領の任命によりCivil Liberties Public Education Fund Commissionの委員長を務めました。現在は、サンフランシスコを拠点とするミナミ・リュー・タマキ法律事務所のパートナーとして、人身傷害およびエンターテイメントの法律を専門に活躍しています。(2003年2月8日)

Bill Hashizume
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ビル・ハシズメ

日本の教育を受けさせるようにという父の遺言(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

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Byron Glaser
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バイロン・グレイサー

アートをサポートすることの重要性(英語)

イラストレーター、デザイナー

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Roy Hirabayashi
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ロイ・ヒラバヤシ

学校と家で学んだ日本語(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

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Mónica Kogiso
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モニカ・小木曽

日本文化の継承-日本語学校(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

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Aiko Yoshinaga Herzig
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アイコ・ヨシナガ・ハージック

政治権力の欠如が収容所の一因(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

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Aiko Yoshinaga Herzig
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アイコ・ヨシナガ・ハージック

アメリカ人になろうとした結果(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

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Aiko Yoshinaga Herzig
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アイコ・ヨシナガ・ハージック

Asian Americans for Actionへ参加してよかったこと(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

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Aiko Yoshinaga Herzig
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アイコ・ヨシナガ・ハージック

収容所経験のない一世に対する補償運動(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

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Aiko Yoshinaga Herzig
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アイコ・ヨシナガ・ハージック

時期を見計らって始めた補償運動(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

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Aiko Yoshinaga Herzig
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アイコ・ヨシナガ・ハージック

日系人収容者の取り扱いに対する懸念を表す公文書(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

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Aiko Yoshinaga Herzig
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アイコ・ヨシナガ・ハージック

戦中の日系人弁護士からのサポートの欠如(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

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Aiko Yoshinaga Herzig
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アイコ・ヨシナガ・ハージック

1944年の大統領選挙後まで収容所を続けた政治的理由(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

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Jack Herzig
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ジャック・ハージック

人種ゆえにより説得力を持った証言(英語)

元米国陸軍対敵諜報部将校(1922-2005)

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Jack Herzig
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ジャック・ハージック

集団訴訟によってまとまった日系コミュニティ(英語)

元米国陸軍対敵諜報部将校(1922-2005)

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Lorraine Bannai
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ロレイン・バンナイ

大学で初めて知った強制収容の事実 (英語)

弁護士(1955年生)

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