ディスカバー・ニッケイ

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甥との対話から生まれた小説 (英語)

(英語) あれは私が38歳の時だったと思いますが、私のところに甥っ子が遊びに来たんです。彼は収容所で生まれた子で、(遊びに来た)当時カリフォルニア大学バークレー校で社会学のクラスを取っていました。どうやらそのクラスでたまたま「マンザナー」という言葉が出たらしいのですが、家族の者同士の会話以外でその言葉を耳にしたのは、それが初めてだったんですね。というのも私たち家族の間でマンザナーの話をする時は、いつも冗談めいた話しかしなかったので、彼は(「マンザナー」について)よく知らず、(レクリエーション)キャンプか何かなんだろうくらいにしか思っていなかったわけです。自分がそこで生まれているというのに。

でもその社会学の先生が「マンザナー」と言った時、(先生は)単にその言葉を言っただけなんですが、なんとなくピンときたらしいんですよ。それで私の所に来たんです。そして「おばさん、僕はマンザナーで生まれたのに、その場所について何も知らないんだ。そこはどんなところなの?おばさんが知っていることを教えて欲しいんだけど」ってたずねたんです。そこで「お母さんとお父さんには聞いてみなかったの?」と聞くと「うん(聞いてみた)、でもちゃんと話してくれないんだ。すぐに話題を変えちゃって・・・まるで僕がいけない話題でも持ち出したかのようなんだよ」と言うのです。ですから私も「そう、だったら少し話してもかまわないわよ」と言い、いつもの調子で話し始めたんです。食べ物がまずくて、食堂が汚くて、それから風がひどくてという感じでね。そして「そうだ、よく野球をしたのよ!」という具合に、まるでそこが楽しい場所であったかのように話していたんです。

でも60年代に生まれたゲーリー(甥)は、(私たちと違って)プライドがあるんですよ。だからけげんな顔つきで私を見て「おばさん、それってなんか変じゃない?」「さっきから刑務所に入れられたことが別になんでもないことのように言っているけど、本当はどう思っているの?」と言うんですね。私は自分の感情を引き出そうと、一呼吸おきました。それまでこの件についてどう思うかなんて聞かれたことはありませんでしたからね。すると感情が一気に噴出して泣き出してしまい、質問に答えることは出来ませんでした。もちろん甥は、自分の伯母(叔母?)がこんなに取り乱してしまって、いったい自分は何をしたんだろうとビックリしたと思います。自分に何が起きたのか、私にもわかりませんでした。もしかしたら神経衰弱の発作で錯乱してしまったのではないかと思いましたよ。


カリフォルニア州 強制収容所 マンザナールよさらば(映画)(書籍) 投獄 監禁 マンザナー強制収容所 アメリカ合衆国 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2005年12月27日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジーン・ワカツキ・ヒューストンは『マンザナールよ、さらば-強制収容された日系少女の心の記録(Farewell to Manzanar)』(1975年、現代史出版社)の共著者としてよく知られています。1934年、カリフォルニア州イングルウッドに10人兄弟の末っ子として生まれました。幼少時代は南カリフォルニアで過ごしていましたが、1942年、7歳にして家族とともにカリフォルニア州マンザナーにある強制収容所へ収監されました。

ワカツキ一家は1945年に南カリフォルニアへ戻り、1952年にはサンノゼへ転居しました。その後、彼女はサンノゼ州立大学へ進学し、社会学とジャーナリズムを専攻しました。卒業後、数年間カリフォルニア州で働いた後、パリへ留学し書法を学びました。また、1957年にはサンノゼ州立大学で知り合ったジェームス・D・ヒューストンと結婚。以後、3人の子供をもうけます。

1971年、マンザナーで生まれた甥に収容所の体験について尋ねられました。彼は両親に同じことを尋ねたのですが、話してくれなかったそうです。ヒューストン氏は甥にかいつまんで伝えるため、自らの体験談を書き記すことにしました。夫とともにFarewell to Manzanarを書きあげました。1972年に出版されたこの本は、彼女だけでなく彼女の家族の戦前、戦中、戦後の体験を書き記してあります。現在では、多くのアメリカの学校で日系アメリカ人の収容所体験を教えるための教材のひとつとして使われています。また、この本は1976年にテレビ映画化されており、ヒューマニタス賞を受賞。エミー賞のドラマ部門脚本賞にもノミネートされました。

Farewell to Manzanar以来、ジーンは夫とともに作家活動を続けています。2003年には、初の小説The Legend of Fire Horse Womenを発表しました。さらに、大学やコミュニティ機関で数々の講演を行っています。2006年には彼女の社会への貢献が認められ、全米日系人博物館より賞が送られました。(2006年11月25日)

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