https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/380/
日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)
(英語) 祖父のヨシトミは、祖母よりも先に渡米していました。祖父が移住したのは、祖母よりも6年早い1906年でした。大学でビジネスを専攻した祖父は、卒業と同時にアメリカへ渡りました。他の移民たちが期待していたように、私の祖父もアメリカで財を築き、若いうちに引退して日本で自適に暮らすことを夢見ていたのです。そうして祖父は、サンフランシスコで働くことを決め、サンフランシスコ行きの船に乗ったのです。しかしながら、それ(サンフランシスコへ到着した日)はちょうど1906年のサンフランシスコ大地震があった日で、乗船者はサンフランシスコ以外の港に上陸しなければなりませんでした。当時、サンフランシスコから最も近い主要な港はシアトルだったので、船はさらに北上し、数日後シアトルに到着しました。
アメリカでの生活は想像以上に過酷で、祖父はコックか清掃夫の仕事にしか就けず、職を求めて太平洋岸北西部を旅して回ったそうです。たとえ短期労働の仕事でも、カナダまで行って働き、その土地で生活したこともありました。祖父は、エルクス・クラブというところでコックだった時のことをよく話してくれたのですが、夜遅く仕事を終えてレストランを出ると、白人の男何人かが祖父を待ち伏せし、石をぶつけてきたそうです。そんなことが度々起こり祖父は怪我を重ねたので、レストラン側は彼が路地裏から外に出られるよう特別に許可したそうです。そして石を投げていた人たちは、祖父が仕事を辞めたと思い込み、事態は収まったそうです。
日付: 2003年3月18・20日
場所: 米国、ワシントン州
インタビュアー: アリス・イトウ、マユミ・ツタカワ
提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.
ロジャー・シモムラ氏の絵画・版画・舞台作品はアジア系アメリカ人の社会政治的な問題を題材にしています。これらの作品の多くは移民として渡米した故祖母が56年間にわたって綴った日記からアイデアを得ています。自作の絵画・版画の個展を100展以上も開催しており、ニューヨークのフランクリン・ファーネス、ミネアポリスのウォーカー・アートセンター、ワシントンDCのスミソニアン協会国立アメリカ歴史博物館などを拠点とし実験的な舞台作品を紹介してきました。また、教育者としても広く認められており、カンザス大学で特待教授(Distinguished Professor)になりました。さらに、アメリカ美術史学会は、4年間に渡る全米12の博物館で開催された巡回展『アメリカン・ダイアリー』の功績を称え、2001年に最優秀芸術作品賞を授けました。
シモムラ氏個人の書類などはスミソニアン協会アメリカン美術古文書館に保管されています。また、ニューヨーク.、シカゴ、カンザス市、マイアミ、シアトルのギャラリーで彼の作品を見ることができます。
*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。
戦後の差別の経験 (英語)
花屋 (1916-2016年)
渡米の決意(英語)
新一世実業家 (1927-2016年)
アメリカ生活の始まり(英語)
事業の拡大(英語)
人生哲学(英語)
アメリカで直面した偏見
溶接業を営む新一世(1936年生)
日系アメリカ人弁護士として拒絶される(英語)
連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)
アジア系に対するステレオタイプ(英語)
俳優、活動家(1937年生)
渡米を勧めてくれた父(英語)
一世のランドスケープアーキテクト(1940~2016年)
サンフランシスコで受けた差別
横浜出身の戦争花嫁(1937年生)
後悔
日本語の理解を深めるにつれ、日本社会に受け入れられる
(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。
娘が日本になじめず、再度アメリカ行きを決意
ボーディングハウスでの荒れた生活
新一世、居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」の社長
カリフォルニア州サリナスに移民として渡った家族(英語)
三世のビジネスマン(1935年生)