ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/376/

アメリカ人二世と帰米との野球ゲーム(英語)

(英語) シーブルックに行ったときでしたね、私たちはペルー人の野球チームを作ったんですよ。クリスタルシティ出身の帰米も数人このチームに参加するようになって、その後、二世チームと試合をするようになったんです。ディック・クニシマという男が居たんですが、彼はシーブルックというチームのコーチをしていて、このチームは白人とも試合をしてましてね。ある日シーブルックのリーグ戦の後で、私たちのチームもこのリーグ戦に参加してたんですが、彼が私の方にやって来て、「シーブルックでやってみないか?」と言うんですよ。私ともう一人、帰米の選手をシーブルックのチームに入れたがっていました。私と彼はそのチームに入ることを承諾して、市民リーグや社会人リーグで白人チームを相手に試合をするようになりました。そんなことで、二世の人達に混ざって行動するうちにますます英語を話すような環境になっていったんですね。


野球 農場 言語 ニュージャージー州 シーブルック農場 スポーツ アメリカ合衆国

日付: 2003年10月26日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

アート・シバヤマ氏は1930年6月6日ペルーのカヤオで生まれた日系二世の男性です。ペルーで両親・祖父母によって育てられた彼は、第2次大戦中にアメリカ軍の輸送船でアメリカへ両親ともに連行され、テキサス州クリスタルシティの収容所へ収容されました。その後ニュージャージー州シーブロックの生産会社で働くために家族で移住しました。不法移民とみなされていたにもかかわらず、1950年代にはアメリカ陸軍に徴兵され、ドイツに駐屯しました。除隊後は、イリノイ州シカゴとカリフォルニア州サンノゼにて家庭を築きました。近年は、カリフォルニア州ツールレイク収容所の巡礼や日系ペルー人の同窓会に参加したり、日系ラテンアメリカ人の戦後補償を求めるキャンペーンにも携わっています。シバヤマ氏は、2018年7月31日、88歳で亡くなりました。(2018年7月)

*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。

アイコ・ヨシナガ・ハージック

アメリカ人になろうとした結果(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

フランク・ソギ

日本語学校に通ったこと(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フランク・ソギ

戦後日本行きを志願(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フランク・ソギ

日系アメリカ人として持つ日本に対する親近感(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

ロベルト・ヒロセ

日本の習慣(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ポーラ・オヨス・ハットリ

ひとつの言葉で考え、別の言葉で生活(スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父を理解するために日本語を勉強 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

ポーラ・オヨス・ハットリ

アイデンティティを決める重要な要素としての日本語 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

外間良広

移住当初、言葉で苦労

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

高木一臣

アルゼンチンでの初めての仕事(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

スペイン語の学習(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

ピーター・ミズキ

米国国籍を持つ日本人の妻 (英語)

在日三世・剣道家

二木秀人

野田良治先生による日葡辞書

一世教育者(1911年生)

ジョニー・モートン

祖母との会話 (英語)

プロアメリカンフットボール選手。(1971年生)

クリフォード・ウエダ

日本語学校(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)