ディスカバー・ニッケイ

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叔母との養子縁組の可能性 (英語)

(英語) 私たち一家はとても貧しかったですね。というのも、世界大恐慌の時代、写真家だった父にはほとんど仕事がなかったんです。兄たちが屋根に登って鳩を捕まえ、それが私たちの食事になることもありました。母は、5つの家族の洗濯を引き受けていました。それもあって、私たち一家はなんとか暮らしていけたんです。大家族ではあったけれど、困難を乗り越えながら私たちはなんとか頑張って生活していました。

私は6番目の子として生まれ、両親は他の5人の子供たちを食べさせていかなければなりませんでした。私には叔母がいて、彼女には息子が1人いたのですが、もう子供を持つことができなかったんです。叔母は母の妹で、私を養子に迎えたがっていました。でも私の家族にとって、それは非常に辛いことだったんです。かつて父がよく言っていました「ペットは人にあげられる。でも子供たちを人の手に渡すことはあり得ない」って。私たち家族の生活はとても厳しかったのですが、両親が私を養子に出さなかったことを今でもとても感謝しています。そうでなければ、私は全く違う運命をたどっていたでしょうから。


家族

日付: 2003年12月15日

場所: 米国、ハワイ州

インタビュアー: リサ・イタガキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジーン・アリヨシ氏(旧姓:ハヤシ)は、ハワイ大学でスピーチの文学士号(BA)と数学の理学士号(BS)を取得し、教職の資格を得るためにスピーチの講師として働いているとき将来の夫になるジョージ・アリヨシ氏と出会いました。彼女は週一度放映されるテレビのタレント番組の司会などもしていました。ジョージ・アリヨシ氏がハワイの民主党議員に選出された翌年の1955年に二人は結婚しました。

夫のハワイの州知事在任中(1974年-1986年)、彼女は慈善運動や地域社会活動に深くかかわり、ハワイで目覚ましい活動をしたボランティアを年一回表彰するために、「ファースト・レディーズ・ボランティア・アワード」を制定しました。ジーン・アリヨシ氏は、ファーストレディーとしての役目を終えた後でも、国内的・国際的な慈善事業の大立て者として認められています。(2003年12月)

パット・アダチ

父との関係(英語)

第2次大戦中の収容経験あり。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー(1920年生)

キミ・ワカバヤシ

見合い結婚 (英語)

日系カナダ人一世。1931年にカナダへ夫と移住。(1912年生)

シズコ・カドグチ

家族の反対をおしきりボブと結婚(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

エンセン・井上

日系アメリカ人家庭に育つ(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

エンセン・井上

家紋を探る(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

トシオ・イナハラ

家族構成(英語)

血管外科医(1921年生)

トシオ・イナハラ

12歳で1930年のフォードを運転(英語)

血管外科医(1921年生)

ジョージ・カツミ・ユザワ

1942年10月の妹の死(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

真珠湾攻撃が家族に与えた影響(英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

収容所での最初の印象 (英語)

作家(1934年生)

ロイ・ヒラバヤシ

家族で日本の伝統的お正月をお祝い(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

ロイ・ヒラバヤシ

学校と家で学んだ日本語(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

アメリカ人になろうとした結果(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

別々に収容された家族(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

フランク・ソギ

日本の親戚を訪問(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)