ディスカバー・ニッケイ

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アメリカ生活への適応(英語)

(英語)私たちは無事サンフランシスコに到着しました。船を降りると両親が私たちを見つけました。両親にはとても感動的な出来事でしたが、私たちには気まずい瞬間でした。両親は私たちにハグしようとするのですが、私たちは「この人たちは一体誰だ?」と言っていました。何とも妙な感じでした。最終的に私たちはロサンゼルスに到着し、バンカーヒルという地域に住みました。

適応は難しかったですね。言葉が一番の壁でした。日本人にとってアメリカ英語は簡単に理解できるものではありません。日本語はすべて短音節ですが、英語にはあらゆる発音があり、例外もあるので混乱するんです。成績に関してはAが2つ、当然数学と体育ですが、それ以外はF、つまり落第かDでした。8年生(中学2年生)になる頃には英語のコツをつかみ、教室でも何とかやっていけるようになりました。

両親は、親戚を通して私たちに起きたことは知っていたと思います。私の両親も収容所での生活の中で、極めて強烈で困難な体験をしたに違いありません。財産を全て失い、何千人もの人々と一緒に収容所に放り込まれ、ほとんど無一文の状態で収容所から出され、新たな生活を始めなくてはなりませんでした。これらはすべて困難なことでした。そして日本人は文化的にそれに耐えるのです。不幸な出来事についてほとんど話したがりません。私の両親も同じだったと思います。彼らは二世ですが基本的に日本人で、文化背景も日本なのです。

両親は私たちに、不幸な重荷を一切背負わせたくないと考えたのでしょう。私たちをアメリカの生活に順調に移行させることに、両親は何より集中していました。ここでの暮らしにスムーズに馴染めるよう私たちを理解し、大変な努力をしてくれたのは、他でもない私たちの両親です。これは本当に称賛すべきことだと思います。


教育 家族 言語 両親 戦後 アメリカ合衆国 第二次世界大戦

日付: 2019年9月3日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 三木 昌子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1938年イーストロサンゼルス生まれ。家族に連れられて1940年に来日。家族経営ビジネスのためにその年のうちに両親は弟を連れて帰国するが、ハワードと兄のケニーはそのまま日本に留まる。

第二次世界大戦が始まり、米国の家族はアリゾナ州ポストンに強制収容される。1945年8月6日、広島に原爆が投下され、ハワードは爆心地からおよそ1.3キロ地点で被爆したが無事だった。1948年に兄と共に米国に帰国し、家族との再会を果たす。

ハワードはコンピュータ技師の道を歩み、引退後は米国広島長崎原爆被爆者協会(ASA)のメンバーとなり、積極的に被爆体験を共有している。(2019年9月)

Takayo Fischer
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