ディスカバー・ニッケイ

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第二次世界大戦ですべてを失った父(英語)

(英語)フランクリン・ルーズベルトは、全ての日系アメリカ人は――彼は日系アメリカ人とは言っていなかったと思います。彼はただ、日本人と言いました――強制収容に備えるよう、または“抑留”に備えるように、という通知を出しました。その頃父はまだ、当局が来る前にキャンピングトレーラーを購入し、州外に脱出するチャンスがあるかもしれないと考えていました。コロラドに行けばこんな扱いは受けないと聞いていたのです。でももう手遅れでした。FBIがやって来て、私たちは・・・父は基本的にすべてを失いました。私たちは小さな農場を所有していて、父はそこで花やイチゴなどを栽培していました。1942年当時、10エーカー(約4ヘクタール)ほどだったでしょうか。


日系アメリカ人 第二次世界大戦

日付: 2017年9月15日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジェニファー・クール

提供: ジェニファー・クール、マシュー・ピュリフォイ

語り手のプロフィール

1934年カリフォルニア州ジェファーソンパーク生まれ。1942年に家族と共にポモナ集合センターに勾留され、その後ワイオミング州のハートマウンテン強制収容所で収容される。第二次世界大戦の終わりにニュージャージー州のシーブルック農場が労働者として雇用した収容者の中にはカタオカさんの両親もいた。

ニュージャージーの高校を卒業後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校に進学し、1957年に美術教育で文学士を取得し、1959年にはコミュニケーションデザインで修士号を取得する。1957年から1965年まで戦車将校として陸軍予備軍に所属する。1966年、UCLAの美術、美術史、デザイン学部の教員となる。1970年代前半、米国初の市内全域で利用可能な分散型の双方向ケーブルテレビ放送システムを開発する。

カタオカさんはデジタル印刷の美術界への導入に貢献し、高品質のインクジェット技術が普及する前から美術館品質の解像度と収蔵可能なインクや用紙を用いたコンピュータとプリンターのシステムを思い描いていた。

カタオカさんは2018年5月死去。(2019年7月)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

真珠湾攻撃が家族に与えた影響(英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

収容所での最初の印象 (英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

甥との対話から生まれた小説 (英語)

作家(1934年生)

ロイ・H・マツモト

日本との戦争に対する何ともいえない感情(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ロイ・H・マツモト

アーカンソー州にあるジェローム転住センターへ汽車による移動(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ロイ・H・マツモト

日本軍に包囲されたときのメリル・マラウダー部隊の状況(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

収容所の話ではなく人間ドラマ(英語)

作家(1934年生)

リチャード・コサキ

真珠湾攻撃の後の疑惑(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

アート・シバヤマ

真珠湾攻撃後、ペルーからアメリカへ連行(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

アート・シバヤマ

ペルーから連行中のアメリカの輸送船の状況(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

マリオン・ツタカワ・カネモト

真珠湾攻撃後のFBIによる家宅捜索(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

子供の時にみた父の逮捕(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

戦時中に参加した日本での兵役訓練(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

先生から聞いた反アメリカプロパガンダ(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

第2次大戦中の日本での苦難(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)