ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1534/

家族との時間をほとんど持たなかった父(英語)

(英語)父は、家族とはほとんど一緒に過ごしませんでした。大好きな仕事に、ほぼ100パーセント打ち込む人でしたから。それでも時々は、僕らを雪山なんかに連れて行ってくれました。それはもう、僕らにとってはものすごく特別なことでした。どこかに出かけられることなんて滅多にありませんでしたからね。そういう時も、父は必ずカメラを持参しました。そして目的地に到着して車を止めたと思うと、父はもういなくなっていました。日が暮れかかる16時か17時頃まで父の姿は見えません。だんだん寒くなってきて、「お父さんはどこに行ったんだろう」と思うわけですね。父はずっと向こうの方に行っていて、そこから車に向かって歩いて来るんです。そして戻るなり、「よし、じゃあ帰ろう」 と言うわけですね。その間父は、景色を写真に収めながらずっと歩き回っていたんです。


家族 写真家 写真 写真術 宮武東洋

日付: 2001年3月22日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ロバート・ナカムラ、カレン・イシズカ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

有名な写真家トーヨー・ミヤタケ(宮武東洋)氏の息子であるアーチ・ミヤタケ氏は1924年にロサンゼルスで生まれました。1942年、ミヤタケ一家はマンザナー強制収容所へ送られ、第二次世界大戦中は収容所での生活を余儀なくされました。マンザナーで高校を卒業したアーチは、その後、写真家としての道を歩み始めました。1979年に亡くなった父の後を継ぎリトルトーキョーにあるトーヨー・ミヤタケ・スタジオを経営、まもなく現在の所在地であるカリフォルニア州のサンガブリエルに移転しました。アーチ・ミヤタケ氏は、2016年12月、92歳で亡くなりました。(2016年12月)

与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

両親は沖縄出身者と内地出身者の結婚反対の風潮を体験 (英語)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

家計を助けるために砂糖きび畑で働いた10代の頃の経験 (英語)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

パット・アダチ

父との関係(英語)

第2次大戦中の収容経験あり。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー(1920年生)

キミ・ワカバヤシ

見合い結婚 (英語)

日系カナダ人一世。1931年にカナダへ夫と移住。(1912年生)

シズコ・カドグチ

家族の反対をおしきりボブと結婚(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

エンセン・井上

日系アメリカ人家庭に育つ(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

エンセン・井上

家紋を探る(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

トシオ・イナハラ

家族構成(英語)

血管外科医(1921年生)

トシオ・イナハラ

12歳で1930年のフォードを運転(英語)

血管外科医(1921年生)

ジョージ・カツミ・ユザワ

1942年10月の妹の死(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

真珠湾攻撃が家族に与えた影響(英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

収容所での最初の印象 (英語)

作家(1934年生)

ロイ・ヒラバヤシ

家族で日本の伝統的お正月をお祝い(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

ロイ・ヒラバヤシ

学校と家で学んだ日本語(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

アメリカ人になろうとした結果(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)