ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1509/

マンザナーでの仕事(英語)

(英語)私は働いていなかったので、つるはしとシャベルを渡されました。義兄と一緒でしたが、その時はまだ、将来彼が僕の義理の兄になることを知りませんでした。私たちは一緒に働きました。バラックを増設するため、現場に行き土地の整備をしました。ヤマヨモギを切ったりするような作業でした。

その作業は短期間で終わり、別の任務が与えられました。外から入ってくるトラックの積み荷を降ろす仕事です。荷物は全て紙に包まれていました。誰かがわざと破いて開けたのかどうかは分かりませんが、とにかく荷物が一つ落ちてきました。(手を少し広げて)このくらいの大きさの筒状のいろんな色の麻布でした。何に使われるのかは分かりませんでした。

その後、収容所の外に迷彩ネットを作る工場が建てられたことを知りました。フェンスを抜けて歩いていくと、すぐそこに工場はありました。バラック小屋の屋根を高くしただけの、背の高い建物でした。迷彩ネットを上から掛けるために、高さが必要だったのです。女性陣がいろんな色の麻布を編み、私の役目は麻布を彼女達に届けることでした。麻布は、4、5フィート程に細長く切らなければなりませんでした。


兵舎 カリフォルニア州 強制収容所 マンザナー強制収容所 アメリカ合衆国 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2015年2月6日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1921年9月21日、日系移民の両親、イチスケとウメ・フクハラの元にカリフォルニア州ロサンゼルスで生まれる。1927年、ジミーの父は家族を連れてカリフォルニア州サンタモニカに移住し、種苗会社を起業。ジミーはサンタモニカ高校を卒業し、1942年に家族と共にマンザナー強制収容所に送られるまで父の会社で働く。

収容所から早期出所したジミーは弟のジョージと共にペンシルベニア州に移るが、その後60日以内に陸軍に徴兵される。陸軍情報学校に志願し、基礎訓練終了後に東京に派遣され、マッカーサー元師の総司令部(GHQ)の労働局で任務に就く。日本を離れる前、ジミーは両親の親戚を探すために広島を訪問。除隊後はサンタモニカに戻り、4人の兄弟と共に1986年まで種苗会社で働く。(2016年5月)

アーチ・ミヤタケ

父に教えられた収容所の写真の重要性(英語)

写真家・ビジネスマン。

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

真珠湾攻撃が家族に与えた影響(英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

収容所での最初の印象 (英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

甥との対話から生まれた小説 (英語)

作家(1934年生)

ジョージ・アベ

出生地のもつ意義に気づいて (英語)

太鼓・尺八奏者(1944生)

ロイ・H・マツモト

日本との戦争に対する何ともいえない感情(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ジョージ・アベ

収容所の中で才能を磨く (英語)

太鼓・尺八奏者(1944生)

ロイ・H・マツモト

アーカンソー州にあるジェローム転住センターへ汽車による移動(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ロイ・H・マツモト

日本軍に包囲されたときのメリル・マラウダー部隊の状況(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

収容所の話ではなく人間ドラマ(英語)

作家(1934年生)

グレース・アイコ・ナカムラ

収容所でラリーが椅子をデザイン(英語)

カーデザイナー、ラリー・シノダの姉

リチャード・コサキ

真珠湾攻撃の後の疑惑(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

アート・シバヤマ

真珠湾攻撃後、ペルーからアメリカへ連行(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

アート・シバヤマ

ペルーから連行中のアメリカの輸送船の状況(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

ロジャー・シモムラ

戦中の体験を尋ねたときの父の否定的反応(英語)

日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)