ディスカバー・ニッケイ

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母からの助言(英語)

(英語)母は、自分の背景や文化を通し、人生について二つのことを教えてくれました。母は、女手一つで息子4人を育てました。強い人だったと思います。そんな母が言いました。「『ガンバル』、『ガマン』することを忘れないで」と。私は、「どういう意味?」と聞きました。「くじけないことよ」と母は言いました。より良い明日のために希望を持って「飲みこむ」という表現が、私はこの言葉の説明には一番合っていると思います。この考え方にはだいぶ助けられました。どんなに厳しい状況にあっても諦めずにやり通し、より良い明日が来るという希望を持つのです。それが一つ目の助言でした。

もう一つは、「誰も一人では生きられない」と、母は言いました。そして、「ギリ」や「オン」についても教えてくれました。私は、「ギリ」の方が包括的で広い意味があると思います。いつも誰かに支えられているし、これからも社会の中で助けられることになる。だから、助けられる機会があれば人を助けなさい。それが「ギリ」だと教えてくれました。その考え方は、私の中にしっかり叩き込まれました。「助けてくれた人の恩を絶対に忘れてはいけない」母は言いました。実際に私は、大勢の人に助けられてきました。そして時を経て、できる限り人の役に立とうという人生哲学を持つようになりました。自分の人生を振り返ると、それがどんなに大切なことかが分かります。母の助言は、私の生きる指針となりました。


日付: 2005年3月4日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: フローレンス・オチ、アート・ハンセン、西村陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

フレッド・ヤイチオ・ホシヤマさんは6人兄弟の長男として、カリフォルニア州リビングストンのヤマトコロニーへ入植した日系一世の両親の元に生まれました。父親は、ホシヤマさんがまだ8歳の時に亡くなり、一家はその後も苦労しながら農業を続けましたが、結局農地を手放し、1929年にサンフランシスコに移り住みました。ホシヤマさんは、1941年にカリフォルニア大学バークレー校で文学士を取得しましたが、その後サンフランシスコのタンフォラン集合センターに送られ、1942年にはユタ州のトパーズ“戦争移住センター”に数千人の日系人と共に収容されました。ハワイ州真珠湾の米国海軍基地を攻撃した敵国人と同じ人種だというだけで、このような被害を受けました。

ホシヤマさんは、収容所にいながらも自身のライフワークとなるキリスト教青年会(YMCA)の活動を続け、収容所で強く求められていたレクリエーションや教育、親睦のためのプログラムの立ち上げに貢献しました。トパーズからの早期解放が認められ、マサチューセッツ州のスプリングフィールド大学で修士号を取得した後、ホノルルでYMCA若者プログラムのディレクターを務めました。その後、カリフォルニアで都市部の若者のためのプログラムに長年携わりました。また、1976年から83年には全米学生YMCA同盟(National Association of Student YMCAs)の立ち上げを支援しました。引退後は、経理の専門知識を生かし、複数の非営利団体の発展と維持に力を注ぎました。(2016年2月)

恩智 敏子 エレナ

デカセギ者としての移動によっておこる家庭崩壊(スペイン語)

在日日系ペルー人

スミコ・コザワ

戦前の幼少期の思い出 (英語)

花屋 (1916-2016年)

堀切 エドワード・徹

最も運に恵まれた一世(英語)

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タミオ・ワカヤマ

「ニッケイ」の定義(英語)

日系カナダ人フォトジャーナリスト、活動家 (1941 - 2018年)

キャロウェイ・久松 照美

親不孝

横浜出身の戦争花嫁(1937年生)

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フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

母親から受け継いだモットー(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事