ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1383/

幼少期のこと (英語)

(英語)私は、1934年にカリフォルニア州のサンタマリアで生まれました。実は、一週間前誕生日だったのです。80歳になりました。

父は和歌山県生まれの移民一世で、早稲田大学にいたという珍しい経歴を持っています。父はこの国に来て、ユタ大学に行きました。そう、ユタ大学の卒業生なのです。しかしその後、カリフォルニア州サンタマリアに移り住みました。父はサンタマリア・バーレーで農協の幹部ディレクターというものをやっていました。そこで私が1934年に生まれたのです。父は、私がまだ4歳のときに亡くなりました。

当時、私には3人の姉妹がいました。つまり母は4人の子供を持つ未亡人になったのです。私は4歳くらいで、母はロサンゼルスに移り住みました。そのため、私はほぼロサンゼルス育ちみたいなものです。

戦争が始まった1941年、私は確か7歳でした。そのすぐあと、1942年の5月、アリゾナ州のポストンにある強制収容所に“疎開”させられ、1945年の8月までそこで戦争時代を過ごしました。

私たちはロサンゼルス地域に戻り、軍隊に入り、学校へ行っていた時を除いては、それ以来ずっとここに住んでいます。そうでなければ、私は人生でずっとカリフォルニア南部にいたはずです。


日付: 2014年7月2日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 加藤 さくら

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター; Japanese American Bar Association

語り手のプロフィール

カリフォルニア州サンタマリアで生まれる。アツシ・ウォーレス・タシマ判事は、日系アメリカ人としては始めて、アジア系アメリカ人としては3人目の連邦控訴裁判官となった。タシマ氏は移民の一世のもとに生まれ、幼少期の3年間をアリゾナ州ポストンにある強制収容所で過ごす。タシマ氏が1958年にハーバード大学法科大学院に入学したとき、ハーバードにいたアジア系アメリカ人は4名だけであった。その後も、タシマ氏は連邦判事として34年の長い経歴をリードし続けてきた。1980年、カーター大統領によってカリフォルニアの中心地区連邦地方裁判所判事に任命。合衆国連邦地方裁判所に15年務めた後、クリントン大統領がタシマ氏を、ウエストコーストの九つの州を管轄する第九巡回区連邦控訴裁判所に昇進させた。2004年、タシマ氏はシニアの地位となり、現在カリフォルニア州パサデナにある第9巡回パサデナ裁判所にて判事を務めている。(2014年8月)

ジョージ・アベ

出生地のもつ意義に気づいて (英語)

太鼓・尺八奏者(1944生)

ジョージ・アベ

収容所の中で才能を磨く (英語)

太鼓・尺八奏者(1944生)

ジョージ・ヨシダ

スウィングを愛した二世の若者達(英語)

音楽家 (1922年)

キャサリン・ドイ・トッド

控訴裁判所での仕事(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

スミコ・コザワ

日系アメリカ人の避難 (英語)

花屋 (1916-2016年)

スミコ・コザワ

マンザナ収容所での思い出 (英語)

花屋 (1916-2016年)

スミコ・コザワ

収容所の病院で働く (英語)

花屋 (1916-2016年)

スミコ・コザワ

強風の日々 (英語)

花屋 (1916-2016年)

スミコ・コザワ

祖母がマンザナに (英語)

花屋 (1916-2016年)

フランチェスカ・ユカリ・ビラー

両家族への適応(英語)

ユダヤ系日系アメリカ人ジャーナリスト

堀切 エドワード・徹

出生地(英語)

帰米二世(1929年生)

ヒカル・カール・イワサキ

サンノゼへの帰還(英語)

戦時転住局(WRA)カメラマン(1923 - 2016)

ベン・サコグチ

母親の財布

(1938年生まれ) 日系アメリカ人の画家、版画家