https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1361/
(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター
(英語)色々なとき、収容所のことを思い出します。ドキュメンタリーを作るときだけではありません。絵は非常に感情的で、リアルに物語ります。今でも視覚的に物事が示してくれます。メインの絵画・主題は、現在ロゴと一緒に使われているのですが、少年の私がフェンスのある壁やゲートの間から外を見ている絵で、そしてキャッスル・ロックの先の日没を見ています。私は日没をとてもよく覚えています。トゥーリーレイクで、日没はただただ偉大でした。あんなのは他に見たことがない。他の日も、外に出たときに日没を見ました。ただただとても美しかった。この絵の半分では、少年は美しい外を見ており、半分は逆です。私は暗い濃い灰色の収容所を背景に外を見ています。遠方には監視塔も。監視塔とフェンス。フェンスはそれらの前の方にあります。その絵画が、初めて売れた作品でした。この子供、これは私です。電車での出来事も、カモメの出来事も、父が病気で私は席に座っている時の電車での様子も描きました。後ろで父はベッドにいて、そばで母が父をじっと見つめています。その全ての出来事についてただ覚えているのです。蛇も描きました。全て水彩画です。それが売れて…
あと、収容所にいる時、朝食の合図を待って列になっている光景も描きました。全部描いたのです、家族四人とも。妹も、父親もね。それからコックの卵の割り方です。1区画にいる75人もの人々の分を作らなければならないので、何十個もの卵の入った箱を大桶の中に投げ込んでいました。全てです。殻から何から。そして網ですくうのです。殻を取るんですね。でも、まあ全ての殻が取れるわけじゃないんですよ。小さい物は残ります。子どものとき、食べる度にいつも殻を出していたのを覚えています。でもそれが普通だったので文句は言いませんでした。卵はそういう食べ方をすると思っていたのです。殻を出しながら、食べるもんだと。
日付: 2012年6月29日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: クリス・コマイ、ジョン・エサキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ジミー・ムラカミ氏は子供のとき、ディズニーのアニメを見たのがきっかけで映画アニメーターになった。それは第二次世界大戦中にトゥーリーレイクの強制収容所に入れられている日系アメリカ人を対象に見せられたものだった。ロサンゼルスのシュイナード芸術学校に在籍した後、UPAのアニメーターとして働いた。のちに1960、70年代に多数の有名なコマーシャルを生み出したムラカミ・ウルフ社を設立し、「風が吹くとき」や「スノーマン」の長編映画ディレクターとなる。近年アイルランドに住居を構えた後、2014年の2月に80歳で亡くなる。(2014年6月)
ピュアラップ集合センターで失った青年期の能天気さ(英語)
ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)
アメリカ料理を身につけたきっかけ(英語)
ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)
日系人収容所に対する家族の見識(英語)
ミュージシャン、プロデューサー、アーティスト(1977年生)
JACLとの関わり(英語)
「アメリカ生まれの日本人」・元ビジネスマン。(1935年生)
唯一の日本文化:食べ物(英語)
南カリフォルニア出身の在日日系人(1948年生)
収容所への442連隊の兵士の訪問(英語)
ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)
年代による収容所に対する印象の違い(英語)
組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)
1942年10月の妹の死(英語)
戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)
父からではなく歴史の本を通して学んだ収容所(英語)
『ジャイアント・ロボット』の創設者・出版社社長
恥ずかしくて話せなかった収容所の体験 (英語)
作家(1934年生)
後に続く世代のために残す家族の記録 (英語)
アジア系とのかかわりをあまり持たずに東海岸で育つ(英語)
在日日系アメリカ人デザイナー
別々に収容された家族(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
両親の強制収容について多くを知らぬまま成長 (英語)
弁護士 (1946年生)
強制収容所に送られる大勢の日系人を乗せた汽車との遭遇 (英語)
初生雛鑑別師 (1923年生)