https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1355/
(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター
(英語)私たちは、電車にのる許可証を手に入れました。チケットはありません。それは電車に乗るための政府公認の手紙でした。私たちはトゥーリーレイクへ向かったのですが、列車の旅自体は愉快なものではなく、最悪とも言えるものでした。それをもとに短編映画を作れるくらいです。というのも、ずっと一緒に座ることができなかったからです。私は11歳で、兄は13歳、それからシズエがいました。私たちは、ばらばらになってしまいました。カリフォルニア州のフレズノに行くまでの道中、停車する度に、席を予約済みの新しい乗客がやって来るんです。それで、私たちは席をあけるように言われました。でも車掌さんはとても良い方で、優しかったです。とにかく、移動しなくてはいけなくて、座席が全くないときは喫煙室に行きました。喫煙室は煙だらけで、米兵でいっぱいでした。「ジャップがこんなところで何してるんだ?」と言われ、私たちは隅の方で、怯えているように、縮こまっていました。でも、ひとつだけ席が空いていたので、ひとりでそこへ行きました。そして一度だけ席が2、3個空いたとき、一緒に座ることが出来ました。しかし、ほとんどの時間は離れていたのです。
私はその絵を描きました。私たちが2つの座席に2列でいたときの出来事で、とても感動的だったのです。いまでも思い出します。アメリカについて考える中で、一つだけ良いことがありました。車掌さんがとても優しかったのです。一度女性がやってきて、「このジャップ、私の席で何をしてるの?!」と言うのです。車掌さんが「ご婦人、そんな言葉を使ってはいけません」と言うと、彼女は「こいつらを追い出して。さあ!」と、ヒステリーを起こしているようでした。でも車掌さんは「ご婦人、あちらに座って黙っていなさい」と言い、他の席を指定したわけです。私は退こうとしたのですが、彼女は怒りに燃えた目をしていました。それで、このようなことはまた起きるとので、それに備えなければならない、と思ったのです。
日付: 2012年6月29日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: クリス・コマイ、ジョン・エサキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ジミー・ムラカミ氏は子供のとき、ディズニーのアニメを見たのがきっかけで映画アニメーターになった。それは第二次世界大戦中にトゥーリーレイクの強制収容所に入れられている日系アメリカ人を対象に見せられたものだった。ロサンゼルスのシュイナード芸術学校に在籍した後、UPAのアニメーターとして働いた。のちに1960、70年代に多数の有名なコマーシャルを生み出したムラカミ・ウルフ社を設立し、「風が吹くとき」や「スノーマン」の長編映画ディレクターとなる。近年アイルランドに住居を構えた後、2014年の2月に80歳で亡くなる。(2014年6月)
「みんな、盲従した」 (英語)
南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)
原爆直後の広島から学んだ恐ろしさ
日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)
ルーズベルトが日本からの攻撃を望んでいたことを知って(英語)
第1800工兵部隊の一員。戦後本田の輸出部にて、アメリカと日本の貿易を促進(1919-2020年)
FBIへの連行を予期していた両親(英語)
第525アメリカ陸軍需品科(英語)
フォート・マクラレンの兵士たち(英語)
ターミナルアイランドの人たちと収容所へ(英語)
政治活動家(1927-2010)
収容所の屋外便所とシャワー(英語)
15歳の当時、冒険のように思えた収容所(英語)
戦争開始前、日本から米国へ (英語)
花屋 (1916-2016年)
日系アメリカ人の避難 (英語)
収容所の病院で働く (英語)
戦後の差別の経験 (英語)
ポストン収容所での記憶(英語)
(1930年生)アメリカと日本両国で育った日本人とアメリカ人とのハーフ
ポストンへの到着(英語)