ディスカバー・ニッケイ

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ラリーの危険なカーレースに対する母の反応(英語)

(英語)I*:ラリーの危険なカーレース生活に対するお母さんの反応はいかがでしたか?

そうですね、弟はしょっちゅうスピード違反の切符を切られていたので、ヨシ(夫)も覚えていると思いますが、母は、「アクセルを踏まないでね、アクセルを踏んじゃダメよ」といつも言っていました。それは、弟が出かける度に母がかける最後の言葉でした。「アクセルを踏まないで。」と言う母は、本当に我慢強く、同時に心から弟を応援していました。

I:結局のところ、弟さんを誇りに思っていたのでしょうね?

ええ、その通りです。とても誇りに思っていましたよ。それから、父も電気技術者でしたから、ラリーのその後を知っていたらどんなにか誇りに思っただろうと思います。

* 「I」はインタビュアー(ジョン・エサキ)


コンテスト 命知らずの人 ラリー・シノダ 競争 スポーツ

日付: 2011年9月9日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

フランクリン・ルーズベルト大統領が大統領令9066号に署名した日、グレース・アイコ・(シノダ)ナカムラさんは、15歳でした。1942年5月16日、シノダ家の7人は、ロサンゼルス市中心部のユニオンステーション駅から列車でカリフォルニア州マンザナールの強制収容所に移送されました。

マンザナールでは、グレースの弟、ラリーが母親と祖母のために便器用の木箱をリサイクルし、ひじ掛けと背もたれ付きの椅子を2脚デザインしました。それらは、収容所内で「センセーション」を巻き起こし、大勢の見物人の称賛を得ました。その後、ラリーは世界で活躍するデザイナーとなり、彼の1963年製コルベット・スティングレイとマスタングBoss429は、今なお高い評価を得ています。

1944年春、グレースとラリーは、母親と共にバスでマンザナールを去り、コロラド州グランド・ジャンクションに移住しました。グレースは、クエーカーアメリカフレンズ奉仕団日系アメリカ学生転住審議会からの奨学金を得て、レッドランズ大学に入学しました。彼女は、進学のためにカリフォルニア州に戻り、大学を優等で卒業した最初の日系アメリカ人となりました。そして、卒業式の翌日からパサダナ学区で教員としてのキャリアを開始し、ここでも彼女は、日系アメリカ人として採用された最初の教員となりました。その後、彼女は2つの修士号を取得し、教育と芸術分野の仕事を続けました。グレースは、大学の美術教員であるヨシ・ナカムラ氏と結婚し、3人の子供たちに恵まれました。(1912年9月)

ロン・クスミ

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ロン・クスミ

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ロン・クスミ

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ロン・クスミ

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ロン・クスミ

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ロン・クスミ

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ロン・クスミ

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ロン・クスミ

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