ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1222/

日本文化と伝統との出会い(英語)

(英語)大学1年から2年に上がる時、私は初めて日本へ行きました。慶應義塾大学との交換留学プログラムに参加し、日本でひと夏を過ごしました。日本から戻った私には、――日本へ行く前は選考を決めかねていましたが、建築家になりたいと思ったこともありました――日本語を学ぶことが重要になり、勉強を始めました。そして、史学の学位を取得するにあたり、東アジア史を専門分野に選びました。そしてそれは、私にとって、自分のバックグラウンドの全容を理解する上で非常に重要なことでしたし、私の人生の大切な焦点となりました。また、日本のものを受け継いでいるという、本当の意味での意識を持てたことは、私には重大なことでした。 1950年代にロサンゼルスにいた時は、毎年夏になると、姉(妹)やいとこたちとリトル東京の二世ウィーク音頭に出かけ、踊っていました。でも、18か19歳だった私を実際に日本へ向かわせたのは、日系であることの核心に迫りたいという気持ちと、私が日本を受け継いでいるという事実でした。日本行きは、私にとって決定的な経験となりました。


文化的アイデンティティー 集団アイデンティティ 遺産 アイデンティティ

日付: 2012年7月10日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ローレンス・ラン

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター; Japanese American Bar Association

語り手のプロフィール

キャサリン・ドイ・トッド判事は、1942年1月14日、フランクリン・D・ルーズベルト大統領による大統領令9066発令の1か月前に生まれました。大統領令の発令により、彼女と彼女の家族は、ワイオミング州ハートマウンテン強制収容所と北カリフォルニアのツール・レイク強制収容所に収容されました。

第二次大戦後、一家はロサンゼルスに戻り、トッド判事はロサンゼルスで育ちました。彼女は、1959年にロサンゼルス高校を卒業し、スタンフォード大学へ進み、1963年に史学部を卒業しました。その後、ロヨラ法科大学に進学した判事は、1970年、法学位を取得しました。

トッド判事の弁護士としてのキャリアは、ロサンゼルスのリトル東京で個人弁護士事務所を開業したところから始まりました。当時、ロサンゼルスで働く日系アメリカ人女性弁護士は、3人しかいませんでした。1970年代中頃、トッド氏と数名の日系アメリカ人弁護士は集結し、日系アメリカ人弁護士協会(JABA)を立ち上げました。JABA立ち上げ当初の主な目的は、日系人の裁判官を増やすことにありました。

1978年、ジェリー・ブラウン州知事は、トッド氏をロサンゼルス郡裁判所裁判官に任命し、トッド判事は、アジア系アメリカ人女性初の裁判官となる栄誉を受けました。3年後の1981年、ブラウン州知事の任命により、トッド氏はロサンゼルス高等裁判所の裁判官に昇進しました。2000年、トッド氏はグレイ・デイビス知事の任命を受け、カリフォルニア第2区控訴裁判所第2部の陪席判事となり、現在に至ります。(2012年7月)

ウィリアム・ホウリ

日本人ではなく日系人(英語)

政治活動家(1927-2010)