ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1205/

15歳の当時、冒険のように思えた収容所(英語)

(英語)当時15歳だった私には、強制収容は冒険みたいなものでした。強制収容への態度は、年齢や人によって異なりましたが、15歳の私には冒険でした。次はいったい何が起こるだろう?と、当時の私は、恐いもの知らずでした。何だってできると思っていたので、当時について負の記憶はありません。少なくても、初めの頃はそうでした。良くないことは後になってから起こりました。学校に通えないことを、誰も予測しなかったのです。そして、そんな状態がいつまで続くかわからないまま、秋まで学校はありませんでした。私たちはちょうど学齢期の子供で、ぽっかり穴が開いたような空白の時間だけが残りました。1番の問題は、何もすることがないということでした。


投獄 監禁 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 1998年6月12日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ウィリアム・ホウリ氏は、1927年カリフォルニア州サンフランシスコに6人兄妹の末っ子として生まれました。第二次世界大戦の勃発と同時に、家族と共にカリフォルニア州のマンザナー強制収容所に収監されました。高校を卒業した1週間後、ホウリ氏は強制収容所からウィスコンシン州に移り、ウィートン大学に入学しました。1945年3月、ホウリ氏は、父親に会うため再びマンザナーを訪れましたが、許可証を持たずに来訪したとして身柄を拘束されました。さらに、彼個人に対する立ち退き命令が下され、その日の深夜までカリフォルニア州外へ強制退去させられることになりました。その時、ホウリ氏には銃口が突き付けられていました。

戦後、ホウリ氏は、日系アメリカ人市民同盟(JACL)のメンバーとなりましたが、反戦運動や公民権運動に対するJACLの無関心に失望しました。JACLが、議会の委任を受けて強制収容に関する調査活動に乗り出したことを受け、ホウリを中心とするシカゴとシアトル支部の反対者は、1979年5月、政府による個別補償を求めるため、全米日系アメリカ人市民連盟(NCJAR)を立ち上げました。当初、ホウリ氏とNCJARは、マイク・ローリー下院議員(ワシントン州選出)に個別補償の法案化を依頼しましたが、廃案となったため、ホウリ氏とNCJARは裁判で賠償請求を行うことにしました。1983年3月16日、ホウリ氏と24名の原告団は、政府を相手取り27億ドルの損害賠償を求める複雑訴訟形態の裁判を起こしました。

ホウリ氏は、2010年11月12日83歳でこの世を去りました。(2011年11月)

ジーン・アクツ

世論に影響を与えるメディアの役割(英語)

徴兵忌避者(1925年生)

ジョージ・カツミ・ユザワ

JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジーン・アクツ

「国家への忠義に関する質問」に対する葛藤 (英語)

徴兵忌避者(1925年生)

デール・ミナミ

カリフォルニア州ガーデナで育まれた順応性と競争心 (英語)

弁護士 (1946年生)

デール・ミナミ

二世が戦中体験を語るきっかけとなった賠償運動の役割 (英語)

弁護士 (1946年生)

マコ・ナカガワ

テキサス州クリスタルシティーで別人の様になっていた父との再会 (英語)

教師(1937-2021年)

マコ・ナカガワ

テキサス州クリスタルシティーで過ごした幼年期の思い出 (英語)

教師(1937-2021年)

ジョージ・ヤマダ

真珠湾攻撃後に解雇された日系アメリカ人の鉄道労働者たち (英語)

初生雛鑑別師 (1923年生)

ピーター・アイロンズ

学ぶべき教訓 (英語)

戦時中の裁判の再審要求を担当した弁護士(1940年生)

ジョージ・ヤマダ

真珠湾攻撃後に映画館で受けた人種差別 (英語)

初生雛鑑別師 (1923年生)

チエ・トミヒロ

話すことを阻んだ恥の意識 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

チエ・トミヒロ

波風を立てるな (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

ジミー・コウ・フクハラ

マンザナーへの旅(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

ジミー・コウ・フクハラ

マンザナーでの仕事(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

ジョージ・ヨシダ

それでも、日本人 (英語)

音楽家 (1922年)