インタビュー
第二次世界大戦中の収容所(英語)
(英語)戦争が始まってすぐ、私達はサンタアナの競馬場に収容されました。そこに9ヶ月ほどいましたね。私達はカトリック教徒でしたから、本来はマンザナーにあるカトリック教徒地区に行くはずだったと思います。でも父が医者だったので、父は上の命令に従ってどこにでも行かなければなりませんでした。 でも私達は随分ラッキーでした。というのは、私の教母はポーランド出身で、ご主人は日本人だったのですけど、彼女のお宅に少し物を隠し待ってもらうことが出来たからです。それにメリノール療養所にも物をかくまうことが出来ました。母と姉はこのことは内緒だよと私に言ってました。誰も、勿論医者も、余計な物は持っていけませんでした。すべて政府が支給するということだったので。 それに、最後の食事がモンロビアだったということもあり、サンタアナには尼さんたちが車でつれて行ってくれました。幸運なことに荷物もスーツケースひとつじゃなかったんです。他のいろんなところからやって来たお医者さんは荷物は一つしか持ってこられませんでした。 それからアーカンソーのジェロームに移され、そしてジェロームが閉鎖された後は、同じアーカンソーのローワーに移りました。収容所には全部で3年半ほどいました。たぶんもう少し早めに出られたんでしょうが、父としては、西海岸への転入が許可されるまで待ちたいということで、遅れたのです。
日付: 2010年2月3日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: エイコ・マスヤマ、キャロル・フジタ、西村 陽子
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター