ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1124/

ペルー代表 VS. 日本代表

イタリアとか、今スペインとかで、いろんなことを発表したりしてるわけですけどね。これになるとね、結局、ペルー人は素直にペルー人としてやってくれるわけ、扱ってくれる。だから、新聞なんかにずっと載せてくれる時も、かなり大きく扱ってくれる、ね。っていうのは、トシロウ・コニシがペルーのことをいろいろ紹介してくれてると。こういうことで、まぁ、メキシコでも、アルゼンチンでも近いですけどね。

だから、ペルー人からしたら、僕はぺルーの代表で行ってるわけですからね。例えば、イタリアのサルディニアのマグロ大会でも、ペルー人として行くわけです。で、向こうの人はね、あのー僕スペイン語下手だし日本語が結構話せる。もちろん日本人ですからね。向こうの人が、やっぱりね、「本当におまえペルー人か?」って言われるんですよね。まぁ、ペルーはもう100年の歴史があると、日系人のね。その代表で行ってますからってことで、ま、そういう話になるわけです。


日付: 2007年4月18日

場所: ペルー、リマ市

インタビュアー: アン・カネコ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1953年7月11日、宮崎県西都市の老舗和食料理屋の4代目の息子として生まれる。6歳のころからレストランの厨房で遊んでいた小西氏は、11歳の時修業のため他の料理人候補たちと共に厨房の手伝いをするようになる。その後、16歳で上京し、1971年に料理屋「ふみ」のシェフになる。

1974年、アメリカや日本などで和食創作料理で知られている「NOBU」のオーナー松久信幸と共にペルーへ移住。「Matsuei」という和食レストランで10年間シェフを勤めた後、リマ市内のシェラトンホテルで「Wako」と「Toshiro’s」を開店。2002年には、サンイシドロ地区にある「Sushi Bar Toshiro’s」のマネージャーも勤めるようになる。

レストラン経営の傍ら、San Ignacio de Loyola大学でも教鞭を執っったり、世界各国の料理フェスティバルへも参加し、創作料理「ペルービアン・フュージョ ン」(日本とペルーの創作融合料理)を紹介し、数々の表彰を受ける。2008年には、ラテンアメリカに定住している日本人シェフでは始めて、日本政府より農林水産大臣表彰を受賞した。(2009年10月)

ボブ・キヨシ・オカサキ

渡日に対する決断に祖母の影響(英語)

日本在住30年以上の日系アメリカ人陶芸家。(1942年生)

マサカツ・ハイメ・アシミネ・オオシロ

幸福のために可能な選択も... (スペイン語)

ボリビア元駐日大使 (1958-2014年)

飯野正子

日系人とは?

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

飯野正子

日系人から学んだこと

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

フランセス・ミドリ・タシロ・カジ

医師免許取得のためトリリンガルになった父 (英語)

一世医師の娘(1928-2016年)

ジェームス・ヒラバヤシ

ニックネーム (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

ベナンシオ・シンキ

アメリカ大陸へ (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ジェームス・ヒラバヤシ

前後関係・時代背景の織り成す意味 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

ベナンシオ・シンキ

幼年期の記憶:日本人1、日本人2 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ジェームス・ヒラバヤシ

日系人を研究している日本人研究者の推論 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

スティーブ・カジ

FOB - 新参者 (英語)

ハワイ生まれの在日日系人。YMCAの英語教師。

ベナンシオ・シンキ

日本人移住地に対する仕打ち (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ベナンシオ・シンキ

日本語学校での偏見 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

マイク・シノダ

日本への親近感(英語)

ミュージシャン、プロデューサー、アーティスト(1977年生)

フランセス・ミドリ・タシロ・カジ

父の裁判を知る (英語)

一世医師の娘(1928-2016年)