https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1780/
クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)
私は、国籍の有無にかかわらず、日系ペルー人であることを常に誇りに思っていました。そして、物語が明らかになった今、私とヒロ・シミズは一緒に育ち、2か月に1回くらいの頻度で集まります。そして、物語を聞いた彼らは、「ああ、忘れてたよ、君はペルー出身なんだね」などと言います。だから、それはそれでいいのですが、印象などに関して言えば、先ほど言ったように、私のラケットボールクラブのグループは、私をフリオと呼んで楽しんでいます。私も、彼らが私を違った目で見ているので、それは楽しいです。彼らは、私が別の国から来たことを知っているのです。そして、ある人は、「あなたはどこの出身ですか? 日本人みたいだね」とか、「アジア人みたいだね」と言います。[笑] でも、それはすべて良い精神に基づくものだと思います。私はそれがとても気に入っています。私の内なる感情に関しては、何も変わっていません。私は、自分が誰であるかを常によく理解しており、それが両親から受け継いだものだと知っています。そして、私の兄姉は私に大きな影響を与えています。私が年をとるまで想像していたよりもずっと大きな影響を与えています。そして、末っ子である私に彼らがしてきたことすべてが影響を与えてきたことに気づいたのです。
日付: 2019年9月20日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: トム・イケダ、西村 陽子
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
カズム・フリオ・セサール・ナガヌマ(永沼)は1942年7月28日、ペルーのリマで一世の両親のもとに生まれた。第二次世界大戦前、両親は洗濯業を営んでおり、父はコミュニティの中でもリーダー的存在であった。戦争が始まると、FBIは父親を逮捕し、家族全員がテキサス州クリスタル・シティにある司法省の収容所へ送られた。戦争が終わっても、一家はペルーに戻ることが許されなかったため、一家は収容所へしばらくとどまっていたが、ニュージャージー州のシーブロックバームのスポンサーを受け、収容所を離れ、その後、サンフランシスコの神道教会の教師の援助受け、サンフランシスコに移り住み、一家はそこで仕事と住居を見つけることができた。カズムはデザイン会社を設立し、成功を収めた。(2022年9月)
日本文化の継承-日本語学校(スペイン語)
(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長
目立ちたくない外国人(英語)
在日三世・剣道家
人類全体への思いやり(英語)
ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)
アイデンティティ・クライシス(スペイン語)
家族以外の人前で歌うことはなかった演歌(英語)
演歌歌手(1981年生)
日本舞踊を通して感じる日本人・アメリカ人の両アイデンティティ(英語)
日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)
日本へ行くこと(英語)
アメリカ人になろうとした結果(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
歌詞の意味を伝えたい(英語)
ネイティブアメリカンの居留地でのインターンシップ(英語)
和太鼓奏者・アーティスト。太鼓センター・オブ・ザ・パシフィック(Taiko Center of the Pacific)の芸術監督。(1952年生)
東海岸とロサンゼルスの違い(英語)
在日日系アメリカ人デザイナー
アメリカの太鼓と日本の太鼓の違い(英語)
新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)
MISで出会った本土からの日系人(英語)
弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)
日系三世として(英語)
日本社会への突然の受け入れ(英語)
日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)